宗教朝礼 11月26日

おはようございます。宗教部、ミドルのNです。ところで皆さんの1限の授業は何でしょうか。今日はLHR以外、6時間の授業があります。中高で24クラスありますから、単純計算で、144時間の授業があることになる。選択授業もあるので、実際にはそれ以上の数です。本当に大切な時間。だから教師は一生懸命に準備をして、授業に臨みます。

私は、M7の「地理」を担当していますが、カレッジでは「宗教」を7時間担当しています。この「宗教」の授業は悩みます。「地理」ならば教科書がありますが、「宗教」には教科書がないのです。だから何でもできるのです。でもだからこそ悩みます。

先日のことです。色々な準備もあるので、チャイムが鳴る前に教室に入りました。するとある生徒の声が聞こえてきた。小さな声でしたので、はっきりと全ては分かりませんでした。でも多分間違いない。要するに僕の「宗教」の時間が来るのが嫌だということらしい。そんなため息のようなものが僕の耳に入ってきた。これは相当にショックでした。そこであるクラスで率直に訊いてみました。どんな授業がよいのか。君たちはどんな授業が好きなのか。

すると異口同音に、ある具体的な先生の授業のことが口に上ってきました。ある演劇集団を率いておられる先生です。僕はすぐにその先生にお願いして、そのクラスの授業を見せてもらいました。感謝しています。その中で、印象に残ったのは、その先生の姿勢、その佇まいでした。その授業はたまたま生徒がプレゼンをする時間でしたが、その先生が生徒と共に、プレゼンを楽しんでいるのです。そして先生自身も、楽しみながら学んでおられた。その姿です。教壇の上に立ち、圧倒的な権威をもって教えを垂れるという姿ではなく、生徒の中にすぅーっと入り込み、教科の事柄を生徒と共に楽しんでおられるのです。そんな姿でした。

これだなと思いました。私だって、授業の準備はしている。おそらく「きちんと」しているのだと思います。しかし「きちんと」準備をすればするほど、自分の言葉が届いていないと感じる時があります。懸命に語れば語るほど、何か生徒の側との距離が出来てしまう。僕は、まだまだ修行が足りないなあと思っています。

週末から12月に入ります。そして次週からは、教会ではアドヴェント、待降節に入ります。イエス・キリストが「降」りてこられたクリスマスを「待」つ季「節」という意味で待降節です。つまりクリスマスの備えをする期間に入るのです。クリスマスの出来事でお生まれになられたイエス・キリスト。神は、天の上の「教壇」に立って、高見の見物をされ、滔々と我々に教えを垂れる方ではない。神は決断されたのです。我々の人間の世界にすぅーっと入り込り込まれ、人間の姿となられ、私達と共に生きようとされた。

私たちの学校で、ドン・ボスコが今でも慕われているのは、子どもたちと共に歩む、その姿勢ではないかと思う。その教育の姿勢こそが「アシステンツァ」というイタリア語に表わされている。すなわち「共にいること」、生徒に「寄り添う」ことであります。

静岡サレジオの教師は、その授業において、生徒と共に歩む。生徒の中に入り込み、寄り添い、自分の教科のその魅力を、一緒に見つめ、喜ぶ。そのために労苦する。そこに賭けるのです。

今日の「144時間」がより豊かものとなりますように。生徒の皆さん、しっかりと。先生方も一緒に頑張りましょう。そこに静岡サレジオの未来が開かれてくるのです。立ちましょう。

私達の中に、すぅーっと入ってきてくださり、「寄り添い」、共にいてくださるイエス・キリスト。この方がお示し下さった、「主の祈り」を祈ります。

「天におられる私たちの父よ。
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。アーメン」

「聖マリア、私たちのためにお祈りください」。