放送朝礼 1月20日

ミドルのNです。今日は二つのことを語ります。まず一つ目。年末に観たテレビ番組で一番に心に残ったのは、ラグビー日本代表に関するNHKスペシャルでした。抜群でした。「死闘の果てに 日本vs.スコットランド」という番組。

その番組の中で特に最後の25分の攻防について、代表のスタンドオフ田村優選手はこう語っていました。
「人生も変わるであろう試合って一生の中に一回あるかないかなんで…楽しい時間なので…」。
他の選手も「楽しかった」と口を揃えて、そう語る。ただ、私が一番印象に残ったのは、敗者の側、スコットランドの選手の声でした。10番のラッセル選手はこう語るのです。
「もはや勝ち負けを超えていました。そんな試合は滅多にありません。大きなプレッシャーがかかっていたはずですが、こんなにラグビーが楽しいと感じたことはありませんでした」。
そこにおいてもすでに勝者も敗者もなく、いわば「ノーサイド」が成立していたのです。そして、15番のホッグ選手は決定的に語る。
「これまでで最高の試合でした。人々の記憶に残るこのような試合のために自分はラグビーを続けてきたんだ、そう感じました」。
このために、このグラウンドに、このステージに立つために、自分が生まれてきた、そうその選手は語るのです。

思えば、そのようなものに出会えた人は幸いであると思います。自分はこのために生まれてきたんだ。このシーンを見るために、ここに立つために、今まで努力し、生きてきたんだ。そう言える人は幸いです。

昨日までセンター試験でした。娘も受けていました。もちろん親としては第一志望に届いてほしいと願っています。ただ一番の願いは、何よりも彼女が、自分はこのために生まれてきたんだという、そんなステージに立つために、大学で懸命に学んでほしいということであると思う。

私は思う。学校とは、教師とは、そのシーンをそのステージを生徒の皆さんに見せるためにあるのではないかと。そのために教師は、真剣に生きるのです。自らもこれを教えるために生きているのだと、誠実に勤勉に努力していくのです。皆さん、自分はこのために生きてきたのだ。そのようなものがおありになられるでしょうか。それが一つ目のこと。

そして二つ目です。私は中高のクリスマス会の場で、幕間の時間にある詩を紹介しました。「星を動かす少女」(松田明三郎作)という詩でした。

<クリスマスのページェントで、日曜学校の上級生たちは
三人の博士や 牧羊者の群や マリヤなど
それぞれ人の眼につく役を ふりあてられたが、
一人の少女は 誰も見ていない舞台の背後にかくれて
星を動かす役があたった。

「お母さん、
私は今夜星を動かすの。
見ていて頂戴ね―」

その夜、堂に満ちた会衆は
ベツレヘムの星を動かしたものが誰であるか気づかなかったけれど、
彼女の母だけは知っていた。
そこに少女のよろこびがあった。>

私は思う。どうしたら、あの、このために生きてきたと言えるような「人生のステージ」に立つことができるのかということです。それは、自分を今も支えている何かに出会うことではないか。この少女は母親との約束がそうであった。だから誰も見ていないような「舞台の背後」でも、一所懸命に星を動かすことができた。人を生かすのは、そのような声なのです。自分を愛してやまない、支えてやまない一人の人の存在、そしてその声です。

SNSの弊害がよく言われます。私もその弊害は大いにあると思いますが、一行のラインのメッセージが人を立ち上がらせることもある。一人の一つの声が人を生かす。親、友人、恋人、そして教師の声だって、そんな声になる。そして神の声も、そのような声になるのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)。

私がいるではないか、勇気を出しなさい。その声に押し出されて、勇気をもって、私たちは、このために生きてきたと言えるような「人生のステージ」に立つことができるのではないか。その時、私たちも「聖なる者」になることができるのではないか。

さあ、それぞれの「人生のステージ」を求めていきましょう。そのためにこの一日も、誠実に勤勉に努力をする私たちであります。立ちましょう。

私たちを新しい人生へと押し出して下さる、主イエス・キリストがお与えくださった、主の祈りを、共々に祈りましょう。主の祈り。
「天におられる私たちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。アーメン」「聖マリア、私たちのためにお祈りください」。