放送朝礼 11月9日

おはようございます。ミドルのNです。学園に今、教育実習生の方々が来ておられます。教育実習生が来られる度に、高揚感を覚えます。実習生の先生方がひたむきに、そして初々しくも純粋に、授業に生徒にと、向き合っておられる。その姿に打たれて、こちらがインスパイアーされ、自らの教師としての有り様がこのように問われる。そうです、「おまえは、今、何をしているのか?」と。

遠い昔に自らが行った教育実習を思い起こす。今より38年前のことです。都立の商業高校で日本史を教えた。当時は2週間でしたが、1週間が経ち、このままでは終われないと思い、入ったクラスで、毎日「クラス通信」を発行しまくっていました。授業の日本史では丁度、秀吉の朝鮮出兵を扱った。ふと思いつき、実習中に東京の教科書図書館に行き、戦前の歴史の国定教科書を閲覧し、「朝鮮出兵」が「朝鮮征伐」という名称になっていることを調べた。要するに悪い朝鮮をやっつけるという、当時のとんでもない考えが教科書には反映されていました。歴史とは時代状況を映しだす。だから歴史を学ぶとは、今の社会への関心を抜きにしてはあり得ないことを授業では示した(つもりです)。今の自分から見ても授業案として相当に「攻めている」なあとの印象です。そしてなお思う、その時の大学生であった僕が、今の私を見たらどう思うのか。今、私はこう問われているのです。「おまえは、ひたむきに励んでいるのか。純粋な心を失っていないか」。

前に私が指導教諭として受け入れた教育実習生が、実習記録に書いてきた言葉を今、思い起こしています。
「教育という場、そして、授業という場、そこには奇跡ともいえる革命の力が残っている」。
このひたむきな実習生は感じたのです。教育の現場、授業の現場では、出来事が起こるのだ。それは「革命的な力」による。そうだ、「奇跡ともいえる革命の力」であると。

実に神にも、革命的な力が宿っている。そして神こそが、純粋にひたむきに人間と向き合われた。
神は、ご自身のそのひたむきさの故に、人にまでなってしまわれた。その革命的なる一事を、聖書はこう記す。

<神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。>(ヨハネによる福音書3章16節)

先日の体育祭での一コマでした。ミドルの8Bの担任は体育のI先生ですが、そのクラスでは、「おたまレース」でぶっちぎりの一位となった。そのゴールの瞬間です。彼は全体の運営の仕事を担っておられましたが、そんなことお構いなしに、ゴールの瞬間、生徒のもとに駆け寄り、喜びを共にした。その時の姿を、O先生のカメラが見事に捉えていた。今、エントランスホールに、他の写真と共に貼ってありますから、見てくださればと思います。本当に彼はよい先生、そして実に純粋だなあと思いました。

神も私たちのもとに駆け寄ってくださる。そして共に歩んでくださる。純粋に私たちと向き合い、ひたむきに歩んでくださるのです。その究極の姿が十字架でご自身を捧げるお姿なのであります。

だから、私たちもこの学校で、それぞれの課題に、純粋にひたむきに励みましょう。神が共に歩んでくださるのです。その時、私たちの学校にも、革命的な力が働き、我らの思いを越えた奇跡の出来事が、魂が打ち震えるような感動的な出来事が起こるのではないか。

教育実習の先生方、頑張ってくださいね。心から応援しています。今日一日、私たちもひたむきに励んでいきましょう。

お立ちください。祈りの姿勢をしてください。上よりの力を祈り求めましょう。

主の祈りを祈ります。
「天におられる私たちの父よ・・・
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。アーメン」
「聖マリア・・・私たちのためにお祈りください」。