放送朝礼 7月13日

おはようございます。ミドルのNです。授業では出来事が起こります。何よりも生徒の一言が様々な出来事を起こし、授業をリードする。先日のカレッジの宗教の授業での一コマです。C9の男子生徒が、お祖母様を亡くされた話を僕にしてくれた。私はすぐに彼に頼んで、クラスの前でお祖母様の話をしてもらいました。そして、話を聞いたクラスメートに、すぐその場で白紙の紙を配り、彼宛の手紙を書いてもらいました。それだけの授業となった。ただその授業は、私が事前に準備をした内容よりも、クラスの皆の心に響いたのだと思います。

生徒の一言が授業をリードするのです。教師にできることは、その声に、その教科の教師として、真剣に応えていくことではないか。授業が「リモート」になろうが、「探究」になろうが、「反転」になろうが、「アクティブなんだか」になろうが、授業の本質は変わらない。生徒の真剣な声に対して、これまた教師の側が真剣に応えていくということです。

その意味で、応えられなかったなあ、という思いが強いのは、昨年度の授業です。何せ、これから、最後のまとめをしようと思っていた矢先に、3月にコロナ禍の故に休校が始まってしまった。特に昨年のC9、そして11のESの皆さんには申し訳ない思いでいっぱいなのです。ただその授業においても、心に残る生徒の声が、そのリードがあったことを思い起こす。

ある生徒は、ご自分の身体に宿る、ハンデとでも呼べる事柄を、最後には「神様からの才能である」とまで言われた。その生徒が授業でスピーチをされた。そのスピーチが終わり、あるクラスメートが、それに呼応して、忘れられないスピーチをされた。本当に忘れられない。また他にも、「宗教」でよきプレゼンを多くの方がしてくれました。新約聖書のローマの信徒への手紙のプレゼン、旧約のヨブ記のプレゼン、そして『カラマーゾフの兄弟』のプレゼン。それを思い起こす。その時、確かに生徒が主人公であったのです。

授業で、皆さんが真剣に探究される。その探究が、その探究の質が、これからのサレジオの未来を創る。今のM78の社会の授業を通じても、そう感じているのです。

話が広がりました。今、私が意識しているのは、昨年度教えていて、中途半端に終わってしまったクラスの皆さん、そして今、教えている皆さん、そして今、この話を聴いておられる、皆さん、お一人お一人です。

皆さんに、申し上げる。このコロナ禍の中、真剣に生きましょう。授業で真剣に何かを求めましょう。その求めに対して、私たち教師は、真剣に応えていくつもりです。そして忘れてはならないことは、私たちの神様も真剣に私たちに向き合っておられる、ということです。

新約聖書のヨハネによる福音書にはこうあります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)。

そしてこの聖句。

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリントの信徒への手紙一 10章13節)。

12年生。しっかり。イレギュラーばかりのこの状況の中で負けるな。教師が心から応援しています。そして私たちの神様が、皆さんにふさわしい「逃れ」の道を備えていてくださいます。

その故にこそ、今日一日も、真剣に歩みましょう。真剣に授業に臨みましょう。皆さんに、神様の祝福が豊かにありますようにと、祈りたいと思います。

お立ちください。祈りの姿勢をしてください。
主の祈りを祈ります。
「天におられる私たちの父よ・・・
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。アーメン」
「聖マリア・・・私たちのためにお祈りください」。